<引き返すなら今だ!誰も得しない裏プロフィール>

 

私の生い立ちは自尊心の育まれない「ざんねん」なものであった。自分を肯定できず愛せない環境で、腹の底に決して表出しない静かな瞋恚を澱のようにためて生きてきた。こうした人間にとって幸福は少し遙かな存在だ。心身ともに快適な状態が維持される事が幸福な日々であるとするならば、私にとって「快適を追求すること」は、生涯の命題であると言える。そして、家庭生活を、学校生活を、職場環境を、快適に過ごす為にはどうしたら良いのか常に考え続けてきたこの「快適研究」が、誰かの日常や心持ちを平穏にする一助となる事を、心より願っている。

 

平均的な日本人が当然に備えているはずの環境を得られなかった私は、とにかく「ふつう」の人生というものに強いあこがれを抱き、そうなれるように努力して過ごした。生まれ育った土地が自身の性質と全く相容れないという居心地の悪さや、虚弱体質によるハンデもあったが何とか表面的にやり過ごし、良い友人に恵まれてそれなりに楽しい少女時代であったと思う。振り返れば、この頃に己の努力のみで済む類のものは確実に実現可能であるという快適実証実験が既に始まっていた。故郷を愛する気持ちがついに芽生えそうにないのは悲しい事であるが、自分の周囲を変える事は不可能に近く自分を変える事こそ肝要であるという前提条件を実感と共に理解できる環境であったと言える。また、集団生活や組織への所属に対する適性の低さもこの時点で明らかな兆候が見えており、既に同調圧力との戦いは始まっていた。

 

周囲が大学受験を考え始める頃、身内のトラブルに巻き込まれて突然の逃亡生活がスタートする。家に帰る事ができないのだから通学もできず、大学進学どころではない。そもそも悠長に大学へ通えるような環境でもなかったが身内はまた別のトラブルも抱えており、これらの出来事が決定打となってフレッシュな頭脳のうちに研究職を経験したいという望みは永遠に叶わなくなった。当時は特に、ワンアウトで敗者復活なしの新卒至上学歴偏重傾向が強かった為、社会進出という点で一つ縛りゲー要素が発生した事になる。ちなみに口外できるような事情ではない為、当時の学友は誰も私が突然消えた本当の理由を知らない。友人達と約束があった丁度その日に連絡が途絶える事になってしまったのだが、説明も言い訳も叶わず、今でも申し訳なく思っている。

 

誤解なき様に添えておきたいが、出自に対する恨み言を並べたい訳ではない。何しろ親の生い立ちこそスーパーハードモードであり、過酷な半生を明るく乗り越えてきた姿に畏敬の念すら抱くほどだ。不幸の連鎖を断ち切らねばならないと10代にして子孫を残すまいと決意はした(少子化といえど、ただ産み増やせば良いというものではない)ものの、せめて自身の経験を活かして誰かをサポートする事で、この国の未来に貢献できればと考えている。

 

とかく、大きく欠落したものがある人間の生涯は、好むと好まざるとに関わらず要所でそのピースを必死で埋めようとしている自分と向き合い続けるものとなり、日常に限らず経営判断にすら影響が及ぶ。後天的に充足する事の叶わない望みである事は己が一番理解しているのだが、無意識に心が求めるものは仕方がない。傍目には悲しく映るだろうが、幸せになろうともがき、快適な日々を実現しようとするその姿が、私には我がことのように理解できるのだ。

 

少々脱線した。前述のトラブルは何とか収束し、再び定住環境を得て社会に出るタイミングが訪れたが、折悪しくも私はいわゆる超就職氷河期世代であった。売り手市場の今では信じがたい事かもしれないが、大手上場企業ですら正規採用の募集を実施しなかったのである。選択肢が無いので当然ながら非正規労働者として社会人生活をスタートし、7年ほど底辺生活を送る中でいかに快適な環境を実現しつつ、一日も早く苦境から脱却するかを模索した。ちなみにこの期間で経験した多岐に亘る業種と雇用形態は、今かけがえのない財産として私の血肉となっている。後に自身が商品になる日が来るとは考えていなかったが、順風満帆な歩みでは得られない経験が蓄積されたと思えば苦労も報われるというものだ。

 

勤め人として最後に所属した会社には派遣社員として拾っていただいたのだが、退職前には正社員の部下を配置していただけるまでになり、10年もの期間お世話になった。ようやく水の合わない故郷を離れる事もでき、業務こそ多忙を極めたがやりがいのあるチャレンジングなプロジェクトばかりで、尊敬できる上司と同僚、申し分のない職場環境と、長きに亘る努力がようやく結実したといえる快適な毎日を手に入れたのだ。人生快適グラフがあれば、現状では間違いなくこの時がピークであり、かえすがえすもご縁のあった方々には感謝しかない。ちなみに一部上場企業での経験を自身のアピールポイントとしているのは、別に経歴を自慢している訳ではない。東証一部上場企業の占める割合は国内企業の0.05%ほどであり、ただ勤めていただけではなく管理業務の経験を備えているという点は間違いなく希少なキャリアと言え、大きくクライアントに貢献できると考えているからである。

 

ここに至るまでの私は、数少ない選択肢の中から自己実現における最良の一手を選び取ってきた。どんな環境にあっても選択の余地が存在する以上は打つ手が残されているという事であり、全ての選択肢がライフを削るものであったとしても被害を最小限に抑える道を選び取る事ができると実証してきたのだ。しかし、ついに自身の選択によりこれまで積み上げてきた全てを失う日が訪れる。自身のキャリアよりも故郷に残してきた大切な人を支える事を優先したのだ。その人は理不尽な仕打ちに耐え、他人の為だけに生きていた。この高潔な人物が不幸なままで良い筈がない、この人の快適な日々を私が実現しなければ、という使命感に突き動かされ、断腸の思いで帰郷を選んだ。

 

帰郷後は会社の厚意により本社勤務から拠点勤務へ移る事ができたのだが、業務内容の違いからかつての様な充実感は得られず、ポジション的にも年齢的にも後進の育成にシフトチェンジすべきである事は理解しながらも、自身のブラッシュアップを続けたいという需給の齟齬を感じていた事もあり、苦渋の決断ではあったが退職を決めた。帰郷当初は数年で再び故郷を離れる見込みであったが叶わない状況となってしまった事も大きく影響している。

 

独立開業を選んだのは、水の合わない土地で暮らす事のストレスに加え、仕事の充実感を失ったままでは全方位的に不満ばかりが募り快適な日々が遠のくと考えたからであったが、この後アンコントローラブルな生活環境の変化が発生し、自ら勤務時間を設定可能な自営業を選択した事が健康面で功を奏す事となる。物事とは実に多面的なものである。

 

開業して1年ほどが経ち初期の事業構想に目処がつき始めた頃、陽が昇る数時間も前に起床し最も頭が冴えている時間に就寝しなければならないという生活環境の変化を余儀なくされた。朝の情報番組を担当するキャスターをイメージしていただくと分かりやすいと思うのだが、およそ一般的な稼働時間とはかけ離れた生活である。その上、翌日の予定すら直前まで知らされない為、寝起きする時間も不明瞭な中で行動計画を立てる事が困難な事態に陥り、家事負担率の更なる上昇により純時間も削られ、生来的に夜半の方が好調な性質である事が関係しているのか能率も目に見えて低下し、事業プランは完全に頓挫してしまう。己の生活時間配分がコントロール不能な中で体調のケアもままならなず、私は心身ともにみるみる疲弊していった。帰郷して以来、他人のタイムスケジュールに合わせる生活を続けてはきたものの、徹底して自分の都合が埒外となってしまう状況までは想定しておらず、適応する事ができなかったのである。とはいえ、一日も早くこの環境下で実現可能なビジネスモデルを構築しなければならない。目減りする貯蓄額と、この状況が続けば老親を路頭に迷わせてしまうかもしれない恐怖に追いつめられながらも打開策が見いだせず、私はこれまでの人生で最も「快適」を求め、その実現について深く考え尽くす日々を送る事となった。

 

さて、私は己が招いた無理ゲー生活の中で快適な毎日を実現できているのか?あなたご自身の目で確かめていただければと思う。